昭和39年(1964年)東京オリンピックが開催された年に角栄団地として造成が始まりました。

造成前は、ほとんどが山林で一部畑だったようです。

左の写真は造成されてすぐの頃の「りそな銀行」前の道路です。晴れると土ぼこりが舞い、降るとぬかるんで長靴で駅まで行って履き替えたそうです。 

昭和46年ころでも、宅地の一部が旧水路、旧堤防敷、旧公道で登記できない方が370世帯ほどあったようです。地番整理が遅れて、町名変更まで時間がかかりました。郵便の住所欄にも地番の他に、角栄〇〇号と併記した方が間違いなく届くとされていました。この記入が無いと、日高局にまわされることが多かったようです。

1964年と言えば、イギリスで連続して曲が1位となっているグループということで前年からラジオで時々流れていた、ビートルズのレコードが日本でも発売され、大人気となった年でした。ベンチャーズの人気も上がりエレキブームとなり、その後のグループサウンズの始まりとなった年です。オリンピックが開催され、新幹線、高速道路も開通して、今日より明日はもっと良くなるという希望があった時代でした。

昭和40年(1965年)には現在のTAIRAYA交差点の角に、角栄派出所が設置されました。この交番は昭和60年に廃止され、駅前の交番となりました。

 

4月には国際商科大学(現 東京国際大学)が開学しました。

昭和40年(1965年)中ごろ、川越市と角栄建設が相談して選んだ何人かの代表に、自治会の発足を促す説明会が行われました。知らぬ間に代表とされた人達ですが、自治会設立の必要を認め、「組」を起点として正式な代表を選ぶこととしました。平行して設立準備委員を選び、規約、組織、財政についての議論が続けられました。

総務部、厚生部、防犯防火部、文化部、苦情処理部、会計の組織案をもとに、10月に角栄団地自治会として発足、11月に自治会設立総会を開催しました。

昭和41年6月には台風4号による川の増水で、現在の運動公園付近の堤防が決壊し、2・3・6丁目の一部約200戸が床上、床下浸水となりました。畳の上まで水が来て、泣き出してしまった奥さんもいたそうです。9月には4、5日の二度にわたる集中豪雨で60戸ほどが床下浸水 

                            となりました。

当時は大規模住宅開発により急に人口が増えてしまい、行政ではゴミ処理の体制が整っていなかったため、開発責任者である角栄建設が代わりにゴミを集積していました。洪水時には集積していたゴミが流れ出てしまい、衛生状況もかなり悪い状態になってしまいましたが、角栄建設は責任をもって事後処理に当たりました。

その後、該当家屋にはブロック3段の塀と入口にはせ 

              き止め板を置くことで、角栄建設と合意しました。

              入口横には板を入れるための、鉄製のU字構が付けられました。

昭和42年11月に郵便局が開局しました。

昭和43年2月には、遊園地が2ヵ所(霞ケ関北第一、第二公園【川公園、山公園】)しかないため、5ヵ所をあげて遊園地の増設を角栄建設に依頼しています。

1.角栄ストアー(現 TAIRAYA)裏空地

2.商店街空地

3.角栄農協横空地

4.水源地跡空地(2ヵ所)

(回答は1,2,3については検討中。高圧線下空地は全面的に開放するというものでした。

昭和44年には霞ケ関幼稚園が開設。

この当時は新しく1区画ができると、1軒目に「組長(現 班長)さんに」とお願いに歩いたそうです。

 

近隣の自治会に「霞ケ関東」「霞ケ関西」「みなみ」自治会があります。どこを基準に見た方角か不思議でしたが、成り立ち経過で納得しました。

昭和41年6月1日に霞ケ関第二出張所が出来ると同時に、霞ケ関地区の的場下組に属していた霞ケ関駅周辺が「霞ケ関駅東」「霞ケ関駅西」、帝国火工品周辺が「火工品」「火工品南」自治会として設立されました。

昭和47年7月に「火工品」と「火工品南」が合併して「火工品」となり、昭和49年4月に名称変更してみなみ自治会となりました。

昭和52年5月には「霞ケ関東」が霞ケ関東自治会に、「霞ケ関西」が霞ケ関西自治会へ名称変更しました。

会員の方からお借りした写真です。

1966年、契約されたあとで、○契の看板があります。

自治会館すぐ近くですが、後方の東上線に貨物列車が走っているのが、良く見えます。

昭和40年代前半の団地全景。団地周辺はほとんど開発されていないのが判ります。冬の夜、駅から帰る時に横殴りの風にさらされてとても寒く、銀行まで来ると建物でさえぎられてホッとしたこともありました。

下側の横線となっているのが、東上線の線路です。

線路上の空地は国際商科大学のグランド。

右上の空地が霞ケ関北小学校のグランド。

上側の林は帝国火工品製造の工場。

下は会員の方から寄せられた航空写真です。左が1964年5月で、白っぽく見える部分が開発中です。現 1丁目で数十軒分の宅地造成中です。現 2、3、5、6丁目の川沿いはまだ畑、田んぼで、現 高橋への道は経路が大分違います。写真を見比べた結果、橋の位置はほぼ同じです。

右は1974年12月で、TAIRAYA裏側や丸和マーケット横などに空地が少し見えます。左下に帝国火工品製造の工場が見えます。建物の周りに誘爆防止の四角な土塁がある様子が判ります。

下の左は1947年11月です。上の写真で白っぽくなっている部分は山林でした。

駅前に家が数軒ありますが、他には家が見えません。駅の近くも畑や田んぼでした。

右は開発前の1961年9月です。駅前の家が増えています。駅から団地への道路もありませんでした。

下の左は1990年10月で、帝国火工品製造の工場が住宅公団に売却されて開発されています。

一部住宅が建ち始めています。

右は2002年5月で、伊勢原との境が判らない状態になっています。

帝国火工品製造(株)

昔は(戦時中)霞ケ関、名細の地名がでると必ず帝国火工のどの辺ですか、と聞かれるほど有名な工場の一つでした。工場の敷地は現在の伊勢原と霞ケ関北の一部に接する広大な土地でした。帝国火工は昭和13年10月、産業用ダイナマイトを中心とした火薬類の生産を行うためにできた工場でした。

 霞ケ関、名細地区にできた理由は、当時福岡村(現 上福岡市)に陸軍造兵廠、つまり火工廠があり、軍の火工品類の製造を行っていました。そこで会社は軍の受注をうけるために何かと便利な近い場所を物色した結果、最終的に霞ケ関、名細地区に決定しました。工場敷地を購入し、建物も完成し生産を開始した時はすでに第二次大戦で、軍事工業の最先端にあり増産をしいられました。敗戦後、軍事産業から平和産業に切り替えられましたが、一躍脚光を浴びたのは、宇宙開発の基本と言うべきロケット燃料と火工品を製造したことです。ここで作られた固形燃料は国内の90~95%のシェアを占めていると言われました。帝国火工品は、昭和45年に日本油脂と合併しましたが、その後工場周辺が都市化したため、工場の土地の一部(40.2ヘクタール)を日本住宅公団へ分譲したため、大きな団地(伊勢原)に生まれかわりました。

昭和55年、日本油脂から分離し日油技研工業(株)となり現在に至っています。

昭和40年代には、年に1回ていどロケット燃料のテストのごう音がしました。


 自治会広報誌

 昭和41年7月1日に「自治会新聞」として創刊されました。トップ記事は「また延びた学校開校」として11月中となっていた現 霞ケ関北小の開校が1月末に延びたことを伝えています。

 

 霞ケ関北小学校は翌年の1月31日に「霞ケ関小学校 分校」として開設され昭和44年(1969年)4月1日より「霞ケ関北小学校」となりました。

昭和41年6月1日霞ケ関第二出張所として開設された出張所が昭和46年11月1日に霞ケ関北出張所と改名されました。

昭和47年10月1日より川越市大字(おおあざ)的場や吉田、字(あざ)百姓野や女堀などとなっていた住居表示が霞ケ関北〇丁目となりました。

 

 このように見ると現在の霞ケ関北という名称は、霞ケ関小学校の北ということで霞ケ関北小学校と名付けられたことが最初のようです。

町名を決めるには昭和45年11月に自治会でアンケートを行い、「霞ケ関」「霞ケ関町」「北霞ケ関」「霞町」など出て「霞ケ関町」が最多だったようです。

 その後、昭和46年3月に「町名対策委員会」が「霞ケ関」「霞ケ関北」「霞台」「千草町」「昭和町」の5案を答申しました。6月から7月にかけてのアンケートでは「霞ケ関」が1位(1146票)で「霞ケ関北」は2位(245票)という結果でした。市議会へ要望する前に、霞ケ関地区の自治会代表と話し合いを持ち、その席で小・中学校、公民館、各種団体に霞ケ関の名がつけられ、行政でも「霞ケ関地区」となっているので混乱が起きると難色を示され、「霞ケ関」で請願をした場合、その反対請願をしなくてはならなくなり、話し合いで解決したい旨の結論となりました。

 47年1月に再投票し「霞ケ関北」が1001票で1位となり、新町名(案)が決定されました。2月に今までの経過をそえた陳情書として、川越市長ならびに市議会議長に提出されました。3月の市議会で「10月1日付けで」の注釈を加え(地番の整備に法務省が取り掛かって、作業を終了するまでに約半年間が必要なため)可決されました。

 結果として川越市内でも、この周辺は霞ケ関北地区として認識されており、大変良い町名となりました。

昭和48年1月1日発行の第53号からは、4月1日から東武自治会と合併して霞ケ関北自治会と名称が変更されるのに合わせて「かほく」と改名されている。

第50号では新聞の名称も募集され、第54号では「対等合併の方向で!」として東武自治会会長の一文が掲載されています。

 このころの記事は東上線のダイヤ改正(改悪と怒っている)、未舗装のデコボコ道路の舗装について、公民館や小学校体育館の建設問題など生活向上のための記事が多い。簡易舗装となった後も、小畔川の改修や霞ケ関北小の体育館建設などでダンプが頻繁に通り、デコボコになってしまうという投書が多かった。

 自治会の発足当初より、小学校の名称、町名についてが問題となっています。小学校名は、角栄建設が敷地の提供、建設費の一部を負担することで、川越市立角栄小学校とすることが市長と角栄建設の間で協定が結ばれ、41年3月の市議会でも承認され、自治会内では大問題となっています。その後は、とりあえず霞ケ関小学校分校ということで開校されています。角栄小学校となっていたら、現在の霞ケ関北という地名ではなかったかもしれません。

当時の自治会では、「町名と学校名は密接な関連がある」という見解をとっていたため、同時進行で進める姿勢をとっていました。

昭和48年3月には北小の体育館が完成しています。

昭和52年4月に開校した霞ケ関東中学校は、当初「仮称 的場中学校」として建設されていたが、開校前のアンケートの結果で名前が決まったようです。

霞ケ関東小学校は昭和50年4月に開校しましたが、当自治会の学区ではないので「かほく」の記述がありません。


 自治会事務所

47年8月の「自治会新聞」に自治会事務所の建設が報じられています。商店街の裏、松の木を取り払ったあととなっているので、現在の松の木憩い所の場所にありました。

側溝掃除のあとに撒く薬剤をとりに行った、かすかな記憶があります。薬剤を撒くと蚊が少なくなったような気がしましたが、薬剤が川へ流れ込むということで中止となりました。

 

 

開発当時の3丁目付近です。自治会発足のころには、まだ1本松が残っていたそうです。

 

上の写真の建物は、自治会事務所が出張所2階へ移転した後は、集会等に利用していたが老朽化したため、現在の松の木憩い所が昭和61年(1986年)3月に完成しました。

昭和50年12月30日には霞ケ関北出張所(現 TAIRAYA前 駐車スペースあたり)の2階へ仮移転しています。  

平成11年(1999年)8月21日午前9時より自治会役員、建設委員(会員からの応募と理事によって構成)などの関係者出席のもと地鎮祭がとり行われ、工事の安全を祈念しました。

平成2年ころより立派な自治会館を建てる計画がありました。平成4年より毎年200万円ずつ積み立て、最終的に自己資金1600万円に市と県からの補助金2500万円を足して4100万円の予算が準備されました。

古い自治会館(松の木憩い所)を建てる際に市から補助金をもらっており、各自治会に上限1000万円の1回きりという決まりがある市には無理な要求でした。市内の自治会の平均300世帯と比較し、約6倍の1800世帯の霞ケ関北自治会が、他の自治会と同じ上限1000万円の1回きりという補助制度はおかしいと市に陳情し続け、最終的に自治会館建設補助金1000万円と老人憩いの家補助金1500万円の支給が決定されました。

平成12年(2000年)3月の「かほく」には完成した自治会館の写真が載っています。資金のほとんどが建物建設費に充てられたため、什器備品については新年度予算で充当するので、開館は若干遅れました。

平成12年(2000年)6月には、現在の自治会館が開館しました。

平成13年(2001年)6月には玄関横の通路、植栽などが整備されました。

 

 

平成30年と31年には、玄関横と通路に手すりが設置されました。


 お祭り

お祭りは昭和41年8月に2日間で「団地まつり」として1回目が開催されています。2回目からは、金曜日の前夜祭も含め3日間で行われました。

昭和45年からは土曜日の夜に打ち上げ花火も上げられました。花火は昭和52年からは、お祭りの最後に上げられるようになりました。平成に入り、上げられる場所がなくなったため、花火は中止となってしまいました。

昭和47年の第7回まで団地まつりで、昭和48年に第1回霞北祭として開催しています。

昭和52年からは土、日曜の2日間となりましたが霞ケ関西自治会と一緒に、国際商大(現 東京国際大)前から角栄商店街までが歩行者天国となりました。

太鼓を真ん中に据えての盆踊りは、子ども達も大勢参加して盛大でした。

昭和53年からは今と同じに、銀行から旧 星野酒店までが歩行者天国となっています。

2000年ころのお祭り風景です。2002年まであったカクエーストアが写っています。

子ども神輿の歴史

昭和45年 第5回団地祭(霞北祭の前身)に子どもタル神輿が登場。各丁目ごとに、子ども育成会を軸としての手作りタル神輿が6台、街をねり歩く。

昭和46年 新富町2丁目のご好意で中・小二つの神輿と1台の太鼓車を借用できることとなり、本物の神輿が登場。この関係は昭和61年まで続く。

昭和47年 当時の広報部長のあっせんで板橋区前野町のかつぎ手のなくなった神輿2台と山車1台を譲り受け、霞ケ関北支会の所有としました。

 

現在ある神輿は、昭和62年、のちに会長をされました田村 徳さんが、材料費があれば作っても良いと名乗り出て制作されました。材料費だけでも70~80万円かかるため、地域内事業 

                所、商店、会員の寄付を呼び掛けて完成しました。


 運動会

昭和41年(1966年)10月には、第1回の運動会が開催されました。当時は20~40代前半くらいの方がほとんどで、元気がありました。

 たばこ火付け競争など、今では考えられないような競技もありました。

 昭和56年(1981年)の第16回まで行いました。昭和57年は中止、昭和58年は行いましたが、昭和59年は雨で中止となり、それ以降は計画されませんでした。

昭和50年ころは、運動会以外にも、歩け歩け大会や いも堀り大会などいろいろな親睦行事を行っています。


 凧あげ大会

昭和43年1月には、子供へ凧を800枚配布しました。

記録が残る範囲では、昭和45年1月から凧あげ大会として開催されています。

凧あげのあとに、おしるこを配布したりしていました。


霞ケ関北小学校

      写真右上の本部建物は、高名な建築家の設計によるものだそうです。

昭和41年(1966年)4月 霞ケ関小 分校創立

昭和42年1月 霞ケ関小 分校開校。この日を開校記念日とする。

昭和42年8月 校舎第二期工事(3教室)完成、プール完成。

昭和43年7月 校舎第三期工事(6教室)完成。

昭和44年(1969年)4月 霞ケ関北小学校となる。児童数774名、クラス数20。

昭和44年5月 校舎第四期工事(9教室)完成。

昭和46年3月 校舎第五期工事(12教室)増築完成。

昭和48年3月 体育館完成。

昭和48年4月 新校舎完成。

昭和50年4月 川越市立霞ケ関東小学校 分離独立。

昭和58年4月 児童数1181名 クラス数29

昭和64年2月 開校20周年記念式典。

平成14年(2002年)伊勢原へ移転。移転後の跡地は「かほく運動公園」となる。

6丁目にあったころの霞ケ関北小学校       初期の北小グランド(プールのみがある)


 商店街

昭和47年3月の「かほく」に載っていた写真です。当時の商店街は、歩道にまで商品が展示されていて、買い物客もいるので、急ぐ人は車道を歩くような状態でした。

駅前でタクシーに乗り、角栄団地方向と言うととてもいやな顔して、しぶしぶという感じで乗せてもらったこともありました。

商品は飛ぶように売れるので、新鮮で値段も安く、川越市内、鶴ヶ島あたりからも買い物客が来たので、人があふれていました。

昭和46年に越してきて初めての日に、とりあえずスーパー「カクエーストア」(現 タイラヤの場所)へ買い物に行ったら、外には人が大勢いるのに、中の従業員以外の客は私の他に1名しかおらず、野菜も元気なく、ネスカフェのみ購入して、その他は商店街で購入した

                   ことを覚えています。  

当時の「カクエーストア」は1階だけだったと思います。その後、エスカレーターで2階へ上がれるようになり、「しまむら」が2階で営業していました。その頃になると「カクエーストア」にもお客さんが大勢入っていました。隣には「マミーマート」(現 タイラヤ駐車場入り口あたり)もできて、お互いに価格をチェックし合ったりもしていました。


 公民館

昭和42年1月に「角栄センター」として建設されました。

昭和46年11月14日には霞ケ関北公民館としての開館祝賀会が多数の来賓を迎え盛大に行われました。当日は霞ケ関北小学校の鼓笛隊が角栄商店街から駅前までパレードし、中間点の公民館前で演奏して祝賀会を盛り上げました。

霞ケ関北2-2-2となっているので、現在の郵便局の隣、たいらや駐車場入り口のあたりと思われます。

昭和50年5月2日、住民待望の新公民館(現在の公民館)が地域のサークルや各界の代表などが見守るなか、当時の市長が入口のテープを切りました。

市長、地元市議、霞ケ関北支会長などが祝いの言葉を述べました。

昭和54年秋には3階増改築が市議会を通過しましたが、近隣住民の反対で中止となっています。

平成2年3月には2階の会議室4・5が増築されています。


 霞ケ関駅

霞ケ関駅周辺です。現在の駅前交番あたりまで入間川から砂利採取のトロッコ線路があり、東上線にも砂利運搬の為の引き込み線がありました。

駅前に止まっている「だるまクラウン」を見ると、昭和30年代半ばころではないかと思われます。

霞ケ関駅前通りです。スバル360があるので、上の写真と同年代と思われます。まだ未舗装です。

不動産屋さんは、おそらく現在の東和銀行あたりと思われます。

昭和40年代に入ってからの写真と思われます。駅前より踏切方向へ向かって撮っています。左側の看板は左の写真の不動産屋さんです。


昭和40年代ころと思われる霞ケ関駅です。下り電車を降りると、電車がホームにいる間は遮断機が下りていて、ホームから出られませんでした。雨の日は傘をさして待っていました。

昭和49年6月に地下通路ができた時は、大変便利に感じましたが、ホームの屋根と地下通路までが屋根無しとなるので、今度は屋根を作れという話になりました。

最初のころのホームは屋根もありませんでした。昭和40年に複線化されました。

戦後すぐのころの東上線は、食料の買い出しで大混雑し、車内に芋のにおいがするので芋電車と呼ばれていました。

大正3年に池袋ー川越(現在の川越市駅・旧称六軒町駅)間が開通し、第二期工事として坂戸駅までの延長を大正5年開通目標として立案した。最初の路線案は上戸の方へ寄っていた。これを知った当時の的場下組の有力者 岸弥吉、富田仁平治、水村喜平治、青木嘉平治の4人は、駅舎用地を提供するという条件で東武側を説得して、歪曲させて的場地内に誘致することに成功し「的場駅」が誕生した。

笠幡の発智庄平氏が所有山林の大部分を提供して、笠幡地内に昭和4年に霞ケ関カンツリークラブ(当時8ホール、第二期8ホール)という東洋一のゴルフ場を開場させた。ゴルフ場の客は東京から東上線を利用して的場駅で下車し、自動車でゴルフ場に向かう人が多かった。そこで東武に働きかけて駅名を「霞ケ関駅」と改称してしまった。

地元の的場下組の青年は、苦心の末誘致した的場駅を一言の相談もなく霞ケ関駅とすることは何事だと、電柱にビラを貼って抗議した。しかし抗議もむなしく権力に押し切られてしまった。

 駅前は丸通(日本通運)、タクシー、人力車、荒物屋、医師など8軒の家屋があり、駅を降りた客が「最高裁判所はどこにありますか」と聞いた人があったとか。角栄団地が造成され年々住宅が増え、駅舎も大変革をとげ現在にいたっています。 

 

埼玉県砂利採取事業所霞ケ関工場

砂利採取事業所は、大正11年に開設され、入間川の砂利を採取し現場から現在の交番横の道路にあったトロッコの線路で運ばれ、駅構内の8本の引き込み線から貨車に積み込まれて出荷され、県の大きな収入となった。

近くには夏の間、水泳場が開設され、東上線の鉄橋の川越市寄りに臨時の駅(大正時代の開通時は田面沢駅という正規の駅)ができ川越の子供たちが大勢訪れた。

 

川越線と的場駅

国鉄川越線が全面開通したのは昭和15年7月で、川越市を通っている鉄道の中では新しいが、計画の段階からみるとかなり古くから考えていた線路だった。

当時、陸軍が国防上の見地からこの線路に注目するようになった。東海道線が敵の艦砲射撃や爆撃で寸断された時、速やかに内陸部へ武器、弾薬、兵員を輸送するためには、川越を中間地点として大宮と八高線を結ぶ鉄道路線がぜひとも必要と判断されるようになった。ただちに第65回議会(昭和8年12月)に上程、可決され昭和15年に高麗川まで開通した。

的場地区に的場駅、笠幡地区に笠幡駅と二つの駅ができた。的場駅は的場地区で一番低地で、昭和16年川越地方が記録的な大洪水に見舞われ、すり鉢の底に作った駅はすっぽり水面の下になってしまい、他の地域はどんどん水が引いていくのに駅付近はいつまでも引かなかったが、その後改良され現在にいたっている。

戦時中、的場駅に停車中の客貨車両が米軍のP51戦闘機の機銃掃射を受け、車両の下に退避していた人が、機関車が動き出したため死者がでる騒ぎがあった。


 テニスコート

現在の霞ケ関北第3公園(たぬき公園)のところにテニスサークルが、自分たちでテニスコートを造成しました。コートはテニスコート専用の荒木田を敷いた本格的なもの。昭和45年5月5日にコート開きを行っています。


 ソフトボール

昭和41年7月には親睦のためにソフトボール大会、8月には子供ソフトボール大会が開かれました。その後も、ほぼ毎年ソフトボール大会が開かれています。

昭和45年6月28日 火工品、霞ケ関西自治会の協力により、200名近くの参加者で10チームによる大会が行われました。

昭和49年9月には第1回の丁目対抗ソフトボール大会が開催され1丁目が優勝しました。

このころの公民館主催のソフトボール大会にも、1・2丁目連合、3・4丁目連合、5・6丁目連合チームで3チームが出場しています。

昭和50年9月、第2回の丁目対抗は3日間でリーグ戦を行い、3丁目が無敗で優勝しています。

昭和61年まで行いましたが、参加者が少なくなり、それ以降は丁目対抗ではなく参加者数でチーム分けをして何回か行われました。最盛期には試合の前に丁目ごとに朝練を行ったりして、かなり盛況だったようです。

昭和49年11月からは「壮年ソフトボール同好会」が発足し、現在も「霞ケ関北ソフトボール」として活動しています。最盛期は、自治会員の方が40名以上所属していました。

昭和55年には、ママさんソフトも周辺地区の方を入れて「霞チェリーズ」として結成され、昭和57年から川越市大会が開催されて参加していました。

平成6年(1994年)には、当時 自治会と交流があった山形県櫛引町のフルマラソン・ソフトボール大会に、霞ケ関北ソフトボールと霞チェリーズの混合チームが参加しました。


 バレーボール

昭和48年4月第1回バレーボール大会が開催され、地区対抗のリーグ戦により3丁目が優勝しています。

昭和50年11月には霞ケ関北ママさんバレーが発足し、部員を募集しています。

バレーボールも公民館主催の大会に1・2丁目連合、3・4丁目連合、5・6丁目連合チームで出場しています。


旧 消防署

霞ケ関駅そばの信号近く(現在の港屋、床屋)に消防署がありました。

自宅までの道筋を教える場合、まず最初は「消防署方向へ曲がる」でした。右の写真には「角栄団地」の看板が見えます。 

平成6年6月に現在のヤオコー近くに移転し、霞ケ関分署から川越西消防署に昇格しました。


 橋の架け替え

昭和45年5月には、前年秋より工事していた「高橋」の架け替え工事が完了しています。橋の端の柱(親柱)が真っ白でした。橋の完成と同時に小畔川の川底を低くする工事も、一部行われました。

霞ケ関北小の体育館建設と重なり、ダンプで簡易舗装がデコボコになってしまったようです。

架け替え前の吉田橋です。この写真が撮られたのは、かなり古い年代と思われます。

昭和47年1月より工事されていました吉田橋ですが「かほく」7月号には新しい橋の写真が載っています。


 霞ケ関の歴史

入間川と小畦川が洪水のたびに肥えた土を運んでくるので、稲作をするのに適した土地となった。かつては、獣を追い、狩りをしていた人々は水田を開くことによって定住することができ、さらには大きなムラが形成されたいった。

縄文時代後期、紀元前二千年前から紀元前三百年時代の土器が霞ケ関地区から出土している。

若宮水門、安比奈、明神(大町)、黒浜、塚東、西山、丹草、格戸がそれで、埼玉県埋蔵文化財調査事業団が昭和58年から的場の帝国火工品(株)工場跡の発掘調査をした結果によれば、初めて竪穴式住居が造られたのが縄文初期で、その頃から入間川、小畔川周辺に先住民がいたと認められた。これを「的場上組跡」と呼称された。

お伊勢塚公園の中に御伊勢塚と呼ばれる古墳があります。高さ約10メートルの円墳で、おそらく6~7世紀頃造築されたと言われている。天保4年(1833年)から7年までの4年間、全国的に未曾有の凶作に襲われた。いわゆる天保の飢饉です。

毎年行っていた伊勢講の代参も辞退する者が多く出て、中止せざるをえなかった。

先祖代々行っていた代参を中止しては神罰を受けるとのことで、いろいろ話し合った結果、村内の林の中にある塚の上に社を建て、そこへ伊勢神宮を勧請して祀ることにした。それ以来この塚は「御伊勢塚」と言われるようになった。

明治40年に白髭神社に合祀されたため、塚だけになった。

的場の百姓野

東西480メートル、南北670メートルの林があった。現在の角栄団地の場所です。

的場村は寛永16年(1639)川越藩主松平信綱の領地になってから、天保2年(1682)見地が行われた。見地役人が手代達をつれてやってきて名主 加藤八三郎が他の村役人達とともに案内に立ち、ある林の所まできた。

この林は的場村の入会林で、毎年共同で落ち葉を取って肥料にしたり、燃料にする薪をとったり、きのこや薬草をとったりする場所だった。役人の「この林の地名は何と言うのか」との質問にとっさに「百姓野」と答えた。「百姓野の持ち山では、縄を入れるのはどうであろうか」と言って測量は行わず、野銭を少し納入させるようにした。

 

河童の伊勢詣り(かっぱ伝説)

第二次大戦前までは、どこの町や村にも「伊勢講」という講があり、一生に一度は必ず伊勢神宮へ参拝するしきたりになっていた。小畦川に下小坂の小次郎、伊勢村の袈裟坊、小沼(坂戸市)のかじ坊という三匹の河童がいた。ある時、三匹で世間話をしている時、一匹が「人間だけお伊勢参りへ行って、名所旧跡を見てあるいたり、おいしいものを食べてくるのは、どうも面白くない。ひとつおれたち三匹も、伊勢参りへ行こうではないか」と言い出した。ほかの二匹も賛成し、すぐ出発した。

ところが河童にはお金がないので、何も買うことが出来ないし、宿に泊まることもできない。そこで彼らは田からタニシを取って来て、お金に化けさせて使ったのである。味をしめた三匹はすっかり面白くなって、めったやたらと買いあさった。これを最前から見ていた店の主人が「どうも三人のようすがおかしい。差し当たって使わないものまで買い込んでいる。これはなにかあるに違いない」といって、ほかの店の者と相談し、よくよく調べてみると、彼らが渡したものは全部タニシだった。三匹はただちに捕らえられてしまった。

しかし、店の主人たちも相手が河童なので役人に突き出すようなことはせず、さんざんお灸をすえて小畔川へ帰した。それからというもの、三匹はすっかりまじめになったという。


 霞ケ関カンツリー倶楽部

東京オリンピックのゴルフ場として、ゴルフ好き以外の人にも全国的に知られるようになった、霞ケ関カンツリー倶楽部は、笠幡の発智(ほっち)庄平さんの尽力により建設されました。

現在のコース状況は、東コース18ホールは全長7466ヤード、パー71、西コース18ホールは全長6752ヤード、パー73のほぼフラットな林間コースです。

発智庄平翁は1886年(明治19)埼玉県立師範学校高等師範学科の第1回卒業生となりました。1887年には出生地に黒須高等小学校を開設し、校長となっています。

1900年(明治33)、36歳のとき渋沢栄一氏の支援を得て「株式会社 黒須銀行」を創立し、頭取となり、1914年(大正3)~1926年(大正15)まで埼玉県入間郡霞ヶ関村(現 川越市)の村長を務めました。

1927年(昭和2)現 川越市笠幡にある野戸池(現 霞ケ関カンツリー倶楽部 西コース内)の湖畔で、小学校の教え子たちによる発智庄平翁の銅像の除幕式が行われました。出席者の中の友人が「この辺にゴルフ場を造ったらどうか」と持ち掛けました。

写真は野戸池(現 西コース12番内)

 

発智翁は「ゴルフ場」とは何をする所か知りませんでしたが、できるかどうか調査を友人に依頼しました。相当有望な地形であるが、少し平坦すぎるのと交通上不便であるとのことでゴルフ場建設計画は中断されました。

発智翁は「ゴルフ場建設は村の活性化のために、やり遂げねばならない」と決意し、ゴルフ場建設費12万円のうち3万円を用立てると提案して、建設に着手することになりました。

1929年(昭和3)発起人会が開かれ、鳩山一郎(政治家)、石井光次郎(政治家)、五島慶太(東急電鉄の創業者)、近衛文麿(政治家、皇族)など40名が名を連ねました。

開場式は1929年(昭和4)10月6日、クラブハウス内で盛大に行われました。当日、開場式を見学しようと集まった地域の人たちは数千人に達しました。

写真の右は久邇宮殿下、左は発智庄平翁。